中川小十郎は必ずしも西園寺公望の意向に忠実であったとは言えない
本当に西園寺公望の意向に忠実であったのなら石原莞爾教授など絶対にありえなかっただろう
四天王寺大学 聖徳太子
種智院大学 空海
国際基督教大学 マッカーサー
大阪大学 緒方洪庵
愛知大学 近衛文麿の父親
上智→ヨゼフ・ダールマン
法政→ギュスターヴ・エミール・ボアソナード
立教→チャニング・ウィリアムズ
青学→ドーラ・E・スク−ンメーカー
明治→?
学習院 孝明天皇
法政 伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、小松宮依仁親王
國學院 日大 有栖川宮幟仁親王
立命館は京都法政大学が
西園寺の創った私塾・立命館の
名前を使ってるだけで全くの別物。
許可は取ったみたいだけど。
あと新島襄って何した人?
西園寺公望は実際に明治大学で教えていた時期があった
本当は立命館大学よりも明治大学の方が西園寺公望とは近い
駿河台に邸宅もあった
教科書に載ってる 福沢諭吉、大隈重信、新島襄、井上円了>教科書に載らない岸本辰雄
. ところでこのゴミ、どこに捨てたらいい?
∧_∧ ∧_∧
( ´∀` ) ( ´∀` )
/⌒ `ヽ /´ ⌒ 、
. / / 新島.ノ.\_ Μ_/ .(.井上 ヘ. '、
( /ヽ |\__(王)_/| ./ヽ )
\ / | / '\. | ヽ /
( _ノ | / ウワァァン ヽ | (_ )
| / / .|ヽ(`Д´)ノ! V.∧ |
| / / .ヽ.(明治)ノ . V.∧ !
( ) )  ̄ ̄ ̄ ( ( )
| | / Y | |
| | |. .l .| |
/ |\ \ . //| ヽ
∠/  ̄  ̄ \ \
 ̄
早稲田の詐欺入試は汚すぎるw
早稲田理工の一般入試比率はひどすぎ
一般入試は募集人数通りに取ってない
全国私大の中でも一般率は最低レベル
基幹3割
創造4割
先進5割
慶応理工7割
東京理科8割
その上 1学年2000人のマンモス学部
慶応理工の学生の2倍
ひどいw
世界学術ランク2020では
慶応>理科大>早稲田
ひどいw
早稲田は一般入試では
募集人数通りに取ってないw
基幹理工の
一般募集320人
一般入学231人
一般募集人数の7割しか取ってないw
社学の
一般募集500人
一般入学360人
なんと
一般募集人数の6割しか取ってないw
政経の
一般募集525人
一般入学310人
なんと
一般募集人数の6割しか取ってないw
一般募集人数の6割しか取ってないw
一般募集人数の6割しか取ってないw
一般募集人数の8割はマトモな方
受験生騙して偏差値操作
早稲田の詐欺入試
恥ずかしくないのか
恥を知れwww
法経学部
国公立大学においてかつては、北海道大学、大阪大学、名古屋大学、東京都立大学 (1949-2011)、千葉大学に設置されていたが、最後まで存置された千葉大学で2014年(平成26年)に学部改組が行われ法政経学部へと改編されたことで、国公立大学からは姿を消している。
■12月6日(日)伝統の早明戦 優勝がかかる■
NHK全国放映
大学対抗戦 A キックオフ14:00秩父宮
明治大学 VS 早稲田大学
立命館
「最後の元老と呼ばれ、日本の首相を2回も務めた立命館学祖の西園寺公望も 教科書に載ってますが・・・」
「西園寺公望は創立者じゃないでしょうが!! 立命館の創立者は中川小十郎」
「大学を創ってもいない人間を学祖などという訳の分からない言葉を使って利用しているだけ あーやだやだ」
「そうですか? 西園寺公望は確かに有名人ですが、立命館にとっては創立者以上の存在ですよ」
「その為、学祖という特別な称号を送っているわけです」
「では実際に立命館大学と西園寺公望、中川小十郎の関係を見ていきましょう」
「1869年 私塾立命館が西園寺公望邸内に創立されました」
「私塾立命館の創立者は確かに西園寺公望だけど、立命館大学の創立者は中川小十郎でしょ!」
「その通りです。私塾立命館には300人ほどの塾生がいたようですが、時の政府により閉鎖させられてしまいます」
「西園寺公望はそれをたいそう残念に思い、いつの日にか復興する事を誓います」
「その意志を継いだ西園寺の腹心、中川小十郎です」
「きれい事ですな 中川小十郎が自分の創立した立命館大学の名を高める為に西園寺の名を利用したんでしょ 」
「・・・それでは、西園寺が立命館大学にどれだけ深く関わっていたかを見ていきましょうか」
「まず西園寺公望は実弟の末弘威麿(東山天皇6世の孫)を学園幹事に送り込み、
同じく実弟の徳大寺隆麿(住友財閥当主、住友銀行創設者)に資金投入をさせています」
「また、大学昇格には一定の蔵書(図書館)が必要であった為、西園寺公望は自分のコレクションの中から寄贈しています」
「英仏書187冊、和漢書約300冊、西園寺家伝来の和綴本739部 881冊
寄贈は6,671冊にもおよびます。これにより立命館は大学への昇格条件を満たす事ができました」
「また西園寺家家紋である「左巴」の旗を立命館大学が使用することを許可しておりこれは実際に使用されています」
「創立当時の歴史をみると、立命館関係者は一国の首相、財閥創立者、
貴族や豪商さらには皇族、王族(後述)といった超豪華メンバーが支えていました」
「それに比べると同志社大学は、新島襄の身分が下級武士であった為、
金銭的にはずいぶん苦労したようですね 実際寄付金集めの途中で病死していますから」
「西園寺が立命館設立にあたって様々な支援をしましたが、衣笠キャンパス設立にも大きく関わっています」
「立命館の衣笠キャンパス建設にあたって満州国皇帝である愛新覚羅溥儀 が寄付した事で建てられました」
「西園寺公望は「最後の元老」と呼ばれており、同じく「最後の皇帝」であった溥儀が現在のメインキャンパスで
ある立命館衣笠を作ったのは面白い話です」
「立命館は過去に仮校舎として清輝楼という料亭の二階を借りていたくらいですから大助かりだった事でしょうね」
「ちなみにこの清輝楼、あの超有名な吉田屋のことです(吉田屋→清輝楼)」
「新撰組に追われていた桂小五郎を芸妓の幾松がかくまった話や、坂本龍馬と
中岡慎太郎が署名に立ち会った薩土盟約締結の場として有名ですね 」
「たかが料亭の二階といえども立命館の歴史としては誇らしいものではないでしょうか」
「ラストエンペラーの話に戻りますが、その子孫である愛新覚羅烏拉熙春は今現在も立命館で教鞭をとっていますし
愛新覚羅溥傑は立命館大学法学博士を勤めていました 」
「当時ぽっと出の立命館に、仮にも一国の皇帝が常識外れな程、多額の寄付をしてくれたり、
その直系親族が次々と留学したというのは通常あり得ない話です」
「ここにも総理大臣であった西園寺公望の影響が多分にある事は簡単に想像できます」
「さらに現在に受け継がれている立命館大学の扁額(いわゆる看板ですね)は西園寺公望が自ら書いています」
「また西園寺公望が老いて最後となる京都訪問を行う際、その訪問先として立命館大学を選んでいます」
「いよいよ西園寺公望の最後となる1940年11月 発熱し床に伏せた知らせを聞いた
中川小十郎は西園寺の元に夜行列車で駆けつけます 」
「西園寺が死去するのはそれから数週間先になりますが、
結局最後の瞬間まで中川小十郎は西園寺の元を一度たりとも離れませんでした」
「同月24日午後七時頃危篤に陥り、西園寺は眠ったまま午後九時五十四分に死亡しましたが、
その際、親族以外で唯一立ち会いを許されたのが中川小十郎でしたから単なる上司と部下ではなかったのが分かります」
「西園寺死去後、立命館大学では西園寺家・家紋「左三つ巴」を染めた旗を半旗として広小路学舎校門に掲げ、
禁衛隊の鼓笛隊演奏、西園寺から寄贈された佐倉丸の鐘を鳴らし西園寺を送りました 」
「このように、立命館大学にとって西園寺公望は単なる創立者以上の存在だったわけです」
立命館の学租西園寺公望の父は右大臣徳大寺公純、生母は末弘斐子(千世浦)で、清華
家である徳大寺家の次男として生まれた。2歳にして西園寺師季の養子となり、西園寺
を名乗る。
養子となってから御所公家町の西園寺邸に入ったのであって、幼名美麿(美丸)が生ま
れたのは西園寺邸ではなかった。
徳大寺家本邸は烏丸今出川東北(現在同志社大学の地)にあって、別邸を田中村にもち
清風館といった。しかし美麿が誕生したのは徳大寺の本邸でも清風館でもなく、徳大
寺家本邸に近い諸大夫堀川久民の家であった。
『住友春翠』は、「千世浦が美麿後の西園寺公望を生んだのは、家の諸大夫堀川西市
正久民の家であったことが糸屯記に據って明か」としている。
雅楽の普及に努めた堀川家は、明治の初期には武者小路新町西入ルの西無車小路町に
あった。嘉永7(1854)年4月6日に京都は大火に見舞われ、御所を始め百五十町、5,400
戸が被災し、堀川家も焼失したと思われるが、美麿(のちの西園寺公望)は堀川久民邸
で誕生したのである。
要するに同志社の土地は西園寺公望の父右大臣徳大寺公純の本邸だった。